幸せであったと、気づくこと
最近の自分。
起きたくなったら起きる。
眠たくなったら寝る。
食べたいものを食べる。
家に帰るとご飯がある。
やりたいことをやる。
やりたくないことはやらない。
会いたい人に会いにいく。
会いたくない人には会わない。
仕事はないけど探さない。
お金は少ないけど、使いたいものに使う。
そんな生活。
。。。やばい、人生で今一番幸せだった!!!!
そりゃ、お金作る方法考えたり、底をつきそうな貯金を引き出すとザワザワする瞬間はあるけど。
何もしていないときは、けっこう幸せだった。穏やかだった。というか、今がそうだ。ハッピー!というような感情の高ぶりではなく、じわ〜っと感じるピースフルな感じ。
つい3ヶ月前。仕事をしていたときの状態とは大違い。
物事がうまく進まないことにイライラし、仲間や上司の発言にイライラし、起こってもないことを考えまたイライラし。翌日起こるであろうことを考え憂鬱になり、達成できていないことに苦悶し、やらなきゃいけない仕事にストレスを抱え。
ありとあらゆるネガティヴでストレスフルな感情を、常に内部発電させていた。自分でネガティヴな感情を生み出していることは分かっていたけれど、気づくとこの思考回路が無意識に生まれていた。この止めどなく流れる電気回路を止めることは、すごく難しかった。
それだけではない。常にがんばろうとしていた。ベキネバ思考に囚われていた。一般論というルールに無意識に従っていた。
情報が糧だった。目標があることが美徳だった。計画通り進んでいることが優秀の証だった。
結果、思考能力は鍛えられた。姐さんと呼ばれることが増えた。
一方、感じる力はひどく落ちた。可愛げがなくなった。
些細なことで感動したり、鳥肌を立てていた過去の自分は、いつの間にか消えていた。豊かな感受性はその感度を落とし、意識しないとイライラ以外の感情を表に出せなくなっていた。
こうして思い出すだけでもあのストレスが蘇ってくる。
そーーーんな過去の自分。でもたった3ヶ月前の話し。その後の自分はといえば、やりたいことをやり、会いたい人に会いに行った。古い価値観を頭からそぎ落とした。自分を縛っていた常識論やルールから解放させた。頭だけに向けていた意識を、ハートと肚に意識的に落とした。心と体が何を感じているかに耳を傾けるようにした。自分だけでは気づけなかったから、一歩先行く仲間の指摘に助けてもらった。優秀なビジネスマンや経営者の話ではなく、代わりに心を扱う人や、自由人・アーティスト、哲学の思想や言葉を取り入れた。結果、外部=他者に情報や答えを求めすぎていたことに気付き、それを辞めることに意識を向け、内部=自分に全てが在るのだと気付き、自分の声を聞くようになり始めた。自愛もしていなければ、自分を愛するという感覚もわからなかったが、ある日、自分はすでに愛されていたのだと気づくようになった。
なぜ変わったかと問えば、退職以来一切仕事をしてこなかっただけのことだと思う。環境が変われば必然的に出会う人が変わり考え方が変わる。もう一つ挙げるならば、自分自身が変わる覚悟と準備ができていたのだろう。準備がくるタイミングは人それぞれで、気づいたら訪れているものだと思う。
過去の自分との比較は面白い。いまとなれば、当時の自分が可愛くて可笑しくてわらっちゃう。
そんな過去の状態があるから、より実感できる。いまが、すごく幸せであったと。
過去の自分のように、達成感ややりがいなど、なにかを目指して得ようとすることは、終わりのない登山をひたすら続けるようなもので苦しい。
それよりも、いま自分が何を感じたいかを選ぶのだ。
幸せだと思った瞬間が、最も幸せなのだ♡